選手に感動体験を
〜北海道遠征記〜
鳥取・米子松蔭高校
監 督  朝 西 知 徳 

1.はじめに
 夏の甲子園予選まで4ヵ月となった。今年も4,200校を超える高校野球部が、甲子園を夢みながら、必死になって練習に励んでいることであろう。私には、甲子園出場こそが選手としても監督としても、高校野球における成功の証だと考えていた時期があった。幸いにも、大学を卒業してから12年目の夏に、監督として念願の甲子園出場を果たしたが、同時に何ともいえない喪失感を抱くことにもなった。甲子園は高校野球の一側面にすぎなかったのだ。高校野球における成功の基準は「甲子園に出場できたかどうか」ではなく、「感動できる体験があったかどうか」だと、実際の甲子園を見ることによって、はっきりと知ったのである。
 目標である甲子園に出場すれば、必然的にある程度の感動体験は得られるが、仮に甲子園出場が果たせなくても、それ以上の感動体験を味わうことのできる機会を設け、選手にかけがえのない青春の思い出を創ってあげることこそが、監督としての使命だと思っている。

2.全員野球のあとで
 スローガンとして全員野球を掲げるチームは多い。しかし、それは精神的な意味合いを強く押し出したものであり、実際には9名程度で戦っている場合がほとんどである。
 昨夏の県大会では、ベンチ入りメンバーである18人をすべて起用して戦った。残念ながら試合に敗れはしたが、試合終了後、その日の最終試合だったこともあり、グランド内で主将、副将、記録員の胴上げをした。応援団や保護者の涙が、ライトに照らされてきらきらと輝いていた。球場を出ると、夕闇のなか、今度はベンチに入ることのできなかった3年生の選手たちが、わんわんと泣く下級生の手によって宙に舞った。選手たちは、この日の全員野球と敗戦の胴上げを、決して忘れることはないであろうと思った。
 敗戦の翌日、このような感動体験をこれからも贈りつづけることに決めた。そこで、現在は稚内高校の部長である伊藤政明先生が、旭川商業高校の監督を務めていたときに米子へ遠征に来ていただいたという縁もあり、夏休みに新チームをしたがえて、試合や練習を繰り返しながら北海道の稚内を目指し、選手に日本最北端の地である宗谷岬からの壮大な景色を見せてあげようと考えた。

第1回北海道遠征行程表(7泊8日)

月  日 午           前 午           後 備  考
2003年7月29日 9:00練習(学校) 15:00学校出発
22:00敦賀港着
マイクロバスで移動
30日 1:30敦賀港発(新日本海フェリー)船内泊
2:30就寝
7:30起床
8:00朝食
8:30練習@(デッキにてストレッチ、補強トレーニング、ハンドリング)
9:30入浴・昼寝
12:00昼食
12:30練習A(デッキにてストレッチ、ハンドリング)
14:00船内ビンゴ大会に参加
14:30練習B(デッキにてストレッチ)
15:00昼寝
17:00夕食
18:00入浴
20:30苫小牧着
22:00ウトナイ湖ユースホステル泊
船内行動、マイクロバスで移動
31日 11:00駒大岩見沢高校と練習試合(栗沢町野球場) 14:30映画「幸福の黄色いハンカチ」想い出ひろば(夕張)見学
17:30ドラマ「北の国から」麓郷の森(富良野)見学
19:30旭川ユースホステル泊
マイクロバスで移動
8月1日 9:00旭川大学と合同練習(旭川大学野球場) 12:30旭川ラーメン村で自由行動
19:00日本最北端の地・宗谷岬着
20:00稚内ユースホステル泊
マイクロバスで移動
2日 10:00稚内高校と練習試合(大沼公園野球場) 13:00稚内高校野球部保護者会主催のバーベキューパーティーに参加
20:00札幌ハウスユースホステル泊
マイクロバスで移動
3日 9:00札幌南高校と練習試合(札幌第一高校野球場)
11:30札幌第一高校と練習試合(札幌第一高校野球場)
14:30札幌狸小路で自由行動
23:50苫小牧発(新日本海フェリー)
船内泊
マイクロバスで移動
4日 タイムテーブルは往路にほとんど同じ タイムテーブルは往路にほとんど同じ
20:15敦賀港着
車内泊
船内行動、マイクロバスで移動
5日 7:00学校着 マイクロバスで移動

1.参加  部長、監督、コーチ各1名、野球部員22名(2年生8名、1年生14名)、計25名。
2.費用  1人40,000円

3.北海道遠征雑感
@長い船旅
 片みち20時間以上も船に揺られることとなったが、規則正しい行動を課し、その中に練習やレクリェーションなどのアクセントを加え、精神と身体がゆるまないように気をつけた。新チーム始動直後ということもあり、はじめ選手は緊張した様子であったが、長い船旅によって連帯感は高まり、しだいに笑顔をのぞかせるようになっていった。


A甲子園出場経験校との練習試合

 駒大岩見沢、札幌南、札幌第一と近年の甲子園をにぎわせている強豪校と練習試合を行った。
 駒大岩見沢との試合では、主戦投手の縦カーブに手も足も出なかった。また駒大岩見沢の打者は、崩されても打ち損じても、それをヒットにできるスイングの速さを身につけていることがわかった。センバツ4強という実績のあるチームだけあり、秋から春にかけての戦い方を知りつくしているチームだなという印象をもった。
 札幌での試合の日は、朝から強い雨が降っており、札幌第一高校の野球場もかなりの水が浮いていた。ところが、札幌第一の選手たちの努力によって、グランドの整備がなされ、試合が行えることになった。また第一試合の開始時刻が早まったにもかかわらず、札幌南の選手は短時間のウォーミングアップで試合に臨んでくれた。
 札幌南との試合では、勝負どころで札幌南の本格派投手がマウンドに上がり、以後は完全に封じ込められるなど、練習試合においても真剣に戦うというスピリットを感じた。また選手が試合の流れをよく読んで戦っているなという印象をもった。
 札幌第一との試合では、札幌第一が大差でリードしているにもかかわらず、最後まで集中力を切らさず、一生懸命に戦ってくれた。個々の技術水準は高く、一人ひとりが沈着冷静にプレーしているなという印象をもった。


B「幸福の黄色いハンカチ」「北の国から」のロケ地を見学
 学校から敦賀港へ移動するバスの中で、テレビドラマ「北の国から」のダイジェスト版である「記憶」(2002年8月放映)のビデオテープを流した。栗沢町野球場から旭川ユースホステルへ移動する際に、のちに帰校してから観る映画「幸福の黄色いハンカチ」の想い出ひろば(夕張)と、バスの中で観た「北の国から」の舞台となった麓郷の森(富良野)を見学した。少しだけ野球からはなれ、選手はとてもリラックスしている様子だった。「幸福の黄色いハンカチ」想い出ひろばでは、「来年は甲子園に行けますように」と書いた黄色い紙を展示室に飾っている選手もいた。


C神宮出場校との合同練習
 昨春に全国大学野球選手権へ初出場したばかりの、母校でもある旭川大学との合同練習では、大学生のスピーディーなプレーと肩の強さに、本校の選手は目をまるくしていた。高校生に刺激を与えるには、レベルの高いプレーに触れさせるのが一番だなと思った。また大学生の熱心な技術指導に、選手はとても感激していた。
D日本最北端への到達
 日本最北端の地である宗谷岬に到達したのは午後7時だった。太陽も沈みおわるころであったが、みんなで薄暗くなった大海へ走り、声をあげて記念写真を撮った。そして、近くの土産店で売られる「日本最北端の地・到達証明書」を選手全員に手渡した。私は3度目の宗谷岬であったが、やはり選手と来た今回が、いちばん心に残るものとなった。岬では「宗谷岬」(唄:千葉紘子/作詞:吉田弘/作曲:船村徹/編曲:斎藤恒夫)の曲が響きわたり、情緒あふれる雰囲気が漂っていた。


E稚内高校とのふれあい
 稚内は12名という少人数チームにもかかわらず、試合前のウォーミングアップから、気合の入った声が球場に響きわたっていた。大沼公園野球場には、小学生の野球選手たちが大勢集まるなど、町中で本校野球部を歓迎してくれていた。試合中は、相手に闘志をぶつけることが礼儀だというように、お互いが声をからしながら戦った。
 午後は、稚内高校野球部の保護者会が主催するバーベキューパーティーに参加した。用意していただいた北海道のご馳走を、お腹がふくれるほど食べ、終わりに両校みんなで写真に収まり、甲子園での再会を誓い合った。涙を流しながら見送ってくれるお母さんたちに、大きな声で挨拶をして、帰りのバスに乗り込んだ。
F恩師「全盲の闘将」との対面
 本誌の1999年5月号や、著書「甲子園に至るまでの心の研究」でも触れたことはあったが、私の大学時代の監督であった本田修平氏(現在66歳)は、全盲の闘将と呼ばれたように、目の不自由な方であった。その本田監督が、札幌南との試合を観にきていた。私は本田監督へ届くようにと、試合中は大きな声を出しつづけた。試合後、本田監督と選手が対面した。私が教え子ならば、選手は教え孫にあたるのかもしれない。「こんにちは」という選手の大きな声に、本田監督はうれしそうな笑顔を見せたあと、大粒の涙をぽろぽろとこぼした。そして大きな声で叫んだ。「みんな、よく来たなぁ」。みると数人の選手も涙を浮かべていた。私は必死に涙をこらえた。大きな声は続いた。「野球は基本が大事だ」。元プロ野球選手の言葉と涙が、みんなの心に重く響いた。私には魂の叫びにも聞こえた。「なんで本田監督が、大きな声で叫んだかわかるか?」。後日、選手に聞いた。「野球人としてのプライドがそうさせているんだぞ」。そう選手に話した。大学時代の私は、レギュラーではなかったし、神宮にも行けなかった。でも本田監督から、かけがえのない感動をいっぱい授かった。その感動体験があったからこそ、私は今でもユニフォームを着つづけているのである。

4.遠征のあとで
 北海道の広大な地に足を踏み入れ、きれいな星をながめていたら、目先の勝利にあくせくしていた自分がとても滑稽に感じた。北海道遠征がおわると、従来ならば午前9時から午後5時まで行っていた夏休みの練習を、午前または午後の3時間だけの集中練習に切りかえた。勝敗にこだわらずに余裕をもって指導しようと試みた。すると、中学校のころから全く実績のない2年生8人がリーダーシップを発揮しながら、1年生の力をうまく引き出し、鳥取県西部地区10校で競う準公式戦を制してしまった。シード校となった秋季県大会でも準優勝を収め、2年ぶりの中国大会へ出場した。さらに、そのあとに行われた西部地区1年生大会も圧勝した。勝とうとしていたときには、なかなか勝てなかったのに、野球を楽しもうとしたとたんに快進撃ははじまったのである。


5.おわりに
 選手たちは、夕暮れの宗谷岬から見た大海原を、生涯わすれることはないであろう。そして再びその地を訪れたときに、楽しかった高校時代を思い出すにちがいない。
 「来年は甲子園と北海道、どっちに行きたい?」。北海道から帰るフェリーの中で、本校の岩垣秀二部長が、ある1年生に尋ねると、しばらく考えたあと「やはり甲子園です」と答えた。選手にとって甲子園は大きな夢なのである。甲子園があるからこそ、苦しい練習にも耐えることができるのであろう。ならば、指導者である我々もその夢を叶えるために、最善の努力をしていく必要がある。しかし、甲子園は追いかければ追いかけるほど、遠のいていくということも知ってしまった。そこで私は、甲子園に固執する指導ではなく、選手のためにやるべきことをやっていたら、いつのまにか甲子園にたどりついていたというような指導をしていこうと思いついた。選手に感動体験を与えようと日々模索していれば、甲子園への扉は、おのずと開かれるであろう。(おわり)


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