朝西紙相撲連盟の活動
1.昭和の熱中
小学五年生の三学期(1977年)、クラスメイトが自宅で『トントン紙相撲』で遊んでいると教えてくれた。訊くと、大相撲に近い本格的な動きができるという。さっそく私も『トントン紙相撲』を手に入れると、力士たちのまるで生きているかのような多彩な技の応酬に魅せられ、徳川式紙相撲に熱中するようになっていった。
本場所の開催
1977(昭和52)年3月に初めて本場所を開催した。「第1回紙相撲本場所」「第2回紙相撲本場所」は、技量審査場所(5日制)のような位置づけであり、実力に見合った正確な番付の編成を主な目的とした。なお、これらの場所の勝敗は、力士の通算成績には含めていない(ただし受賞回数は含める)。
「第3回紙相撲本場所」から「第19回紙相撲旭川場所」までは、日本紙相撲協会に倣って11日制として開催。昭和の時代では最後の本場所となった1988(昭和63)年2月に開催の「第20回紙相撲旭川場所」からは、大相撲と同様に15日制と改めた。
部屋制度の導入
「第17回紙相撲本場所」から部屋制度を取り入れた。それまでは『トントン紙相撲』から切り抜いた40力士を中心に本場所を開催していたが、高校時代に運動部を中心としたクラスメイトが作る力士たちが参戦するようになり、それをきっかけとして、各クラスメイトに親方になってもらい、それぞれの部屋を発足してもらった。なお、『トントン紙相撲』の力士たちも平等な人数に分け、それぞれ部屋に所属させた。部屋名については、それぞれの親方が力士の四股名と同様に独自で名づけることにしているが、親方自身の名字とする場合が多い。
国技館の建設
日本紙相撲協会の国技館に倣って(東京・高田馬場「南米航路」にて開催された日本紙相撲協会の本場所を観戦して)、1984(昭和59)年2月、神奈川県川崎市宮前区に「宮前国技館」を開館した。「宮前国技館」の大きさは、縦・横・高さがそれぞれ60cm。その後、1987(昭和62)年11月、北海道旭川市(平和荘)に移転した。
連盟の発足
1988(昭和63)年2月、高校・大学時代の同級生ら(計15名)とともに「朝西紙相撲連盟」を発足した。日本紙相撲協会とは異なる独自の小さな愛好家団体であるが、日本紙相撲協会と同様に徳川式紙相撲の研究および普及を活動の目的とした。
2.平成の休眠
1988(昭和63)年3月に大学を卒業した筆者は、高校および大学の教員として、生徒・学生指導や教科指導に加えてクラブ指導(野球)を続けたため、平成の時代(約30年間)は、多忙により本場所を開催することはできなかった。その間、「宮前国技館」は老朽化が進み、2001(平成13)年1月に閉館し、17年間の務めを終えた。一方で、力士たちは厳重に保管し、次の本場所まで待機させた。
3.令和の復活
2020(令和2)年4月7日、新型コロナウイルス感染症の拡大により、1回目の緊急事態宣言が全国に発令され、自宅で過ごす時間が圧倒的に多くなった。それを機に朝西紙相撲連盟の活動を再開しようと考え、1988(昭和63)年2月以来、およそ32年ぶりに本場所「第21回紙相撲大阪場所」を開催した。2020(令和2)年には、平成の失った時間を取り戻そうと計10回も本場所を開いた。
ただし、新弟子がほとんどいないという現状と、大相撲が幕内力士の定員を42名と増やしている状況を踏まえて、「第23回紙相撲大阪場所」より、十両制度を廃止。代わりに幕内力士を大相撲に倣って42(±2)名に増員し、幕内の取り組みの充実と活動の質を高めることに重きを置いた。「宮前国技館」は閉館したものの、使用していた土俵は、大阪府堺市西区「浜寺紙相撲場」に移設し、本場所の土俵として使用され、熱戦を繰り広げている。asanishi.sensyuuraku.com/kamizumou-kokugikan.html
力士の形態の変化と分類
現在の力士の形態は、大きく四つに分類できる。『トントン紙相撲』から生まれた力士は、「基本型」(初土俵の時期により「基本T型」「基本U型」「基本V型」とさらに分類)。それらを真似た力士が「模倣型」。先に挙げた二つの形態に近く、かつオリジナル性を加えた力士が「類似型」。日本紙相撲協会の力士に倣った斬新な形態の力士が「進化型」である。
「第19回紙相撲旭川場所」から「第22回紙相撲大阪場所」まで、4場所も続けて平幕力士が優勝を果たした時期がある。そういった形態の変化が、下克上を生んだと分析できる。横綱が絶対王者だった昭和の時代から、平成の眠りから覚め、形態の変化による群雄割拠の令和の時代へ突入している。
おわりに
高校二年生のとき(1982年)、倫理社会の授業中に担当の先生から「紙相撲の話をしなさい」と急に指名された。先生は、私が昼休みに仲間と興じていた紙相撲に、なぜか興味を持ったようであった。私の「講義」はクラスメイトの喝采を浴び、クラスに紙相撲ブームが巻き起こった。「オレにも力士を作らせてよ」。数年前、高校の同窓会に出たときも、当時の紙相撲の印象が強かったのであろう。みんなから「紙相撲まだやっているのか」と尋ねられたが、「野球(指導)が忙しくてダメだ。老後の楽しみにとっておくよ」と返した。
大学に進んでからは、野球部を引退した四年生の冬(1987〜1988年)に、合宿所内で2回ほど本場所を開いた。授業も練習も就職活動もなくなった同級生は、紙相撲という新たな交流の場の誕生を喜んでいた。しかし、それから32年間は、高校および大学野球の指導が忙しく、本場所を開催することはできなかった。大学野球部のOB会では、「紙相撲、懐かしいな」とチームメイトは紙相撲のことを覚えているようだった。
現在、本連盟に所属する力士のほとんどが、高校のクラスメイトや大学のチームメイトが作った(育てた)力士たちである。久しぶりに力士たちを手に取ると、高校や大学の仲間たちの顔や彼らと通わせた感情が蘇った。力士たちとの再会は、同時に仲間たちとの再会でもあり、さらには未熟だった学生時代の己との再会でもあった。懐かしい気持ちと恥ずかしい気持ちが入り混じって、本場所を再開したときは少し胸が苦しくなった。
第2代横綱「旭日利」は、好不調の波を繰り返しながらでも、45年以上も横綱の座を守り続けている。彼の立ち上がる勇気や、それでも歩み続ける勇気は、学生野球の監督として今でも走り続けている私にとって、大きな励みとなっている。今後も、徳川式紙相撲の実践と普及に努め、仲間との友情および社会との関係をさらに深めていきたい。
【参考文献】
朝西知徳『卓上スポーツ・徳川式「紙相撲」の実践と普及』羽衣国際大学現代社会学部研究紀要第11号(2022/03)